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コラム

2018.03.08

サイバーセキュリティニュースの手がかり ~ウクライナという複雑な事情 1/3~

情報セキュリティにおける昨年2017年の重大ニュースに「WannaCry」「Petya」といったワーム型ランサムウェアの脅威が挙げられます。職務上、刻々と変化する情報を追いまくる羽目になった方も多いことかと思いますが、ここでウクライナという国名を何度も目にされたのではないでしょうか。

もっともここ数年、同国を巡るサイバーインシデントは話題に事欠かず、馴染みが薄いわりに頻出する国、というのが個人的な印象です。果たしてウクライナとはどんな国で、事件の背景には何が広がっているのでしょうか。

1.大きいけれど認識しづらい国

本題に移る前にウォーミングアップ。先ずはウクライナという国へ興味を持って頂きましょう。

欧州

ソ連崩壊後における現在の欧州。ウクライナはとにかく広い。

皆さんはヨーロッパで一番面積の広い国と言えばどこを思い浮かべますか。まず筆頭として挙がるのがロシアでしょう。しかしヨーロッパという定義も文脈によりまちまちです。ロシアはヨーロッパとアジアにまたがる国であり、選択肢に含めるべきものか大いに迷います。更にはヨーロッパを政治・経済のイメージで捉えた場合、ロシアを除外してスペイン?フランス?と答える方もいるのではないでしょうか。

先ず、ロシアも含む地理的な意味でのヨーロッパとして考えた場合、やはり正解はロシア。そして二番目がウクライナです。とても広大な国ですね。

対して政経的な側面、例えばEUという枠組みで考えた場合、ウクライナは選択肢から外れます。しかしこれが「西側諸国」という曖昧な定義であれば、選択対象に含まれて面積が一番広いという見解になるかもしれませんし、やはり選択対象ではないかもしれません。とにかく歯切れの悪い話になるのですが、ここは後に触れます。

チェルノブイリ

近年のチェルノブイリ発電所

次に1986年に起こったチェルノブイリ原発事故。これはどこの国の出来事でしょう。事故当時の世界地図を基にするとソ連、現在はロシアが正解…ではありません。ソビエトは多くの共和国から構成された連邦国家であり、チェルノブイリ原発の街キエフは、共和国のひとつであったウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都となります。よって、事故当時であれば正解はソ連、もしくはウクライナ・ソビエト社会主義共和国となりますが、ソ連無き現在、正解はウクライナです。

如何でしょう。以上、二つの質問に答えられない方も多いのではないかと思います。ここで大きな疑問が。果たしてこの国、規模や出来事に反して、我々が確固とした印象を持ち合わせていないのが不思議に思えてきませんか。これはこの地域の抱える、混沌とした歴史的背景が起因しているものと思われます。

2.ウクライナはいつ誕生したのか

1991年、ソ連を構成する共和国の一つであったウクライナ・ソビエト社会主義共和国は、連邦からの独立を求めて主権宣言を発令、後の憲法制定を経て、現在の「ウクライナ」という独立国家が誕生します。長きに渡る経済の停滞からソ連共産党は弱体化、各地で高まる民主化の要求と民族運動を押さえつける統制力は既になく、ソビエトが一気に終焉を迎えた時代での出来事でした。

3.国境が形作られるまでの経緯

独立を果たしたウクライナですが、地図的にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国の版図をそのまま継承したものです(正確に言うと継承したはずでした。)。その版図とは、第一次世界大戦の最中、社会主義革命によってロシアを掌握したソビエト政権が、この地をソビエトの一部とすべく誕生させた"傀儡国家"が基になっています。この国家が誕生する以前、領土の多くはロシア帝国の支配下にありました。また、第二次世界大戦では旧ポーランド領の一部も併合されています。

ここでふと疑問が湧きます。
「ロシアやポーランドの支配下にあったのであれば、元来ロシア人やポーランド人が住んでいた土地なのではないか。ならばウクライナ(ウクライナ・ソビエト社会主義共和国)として、個別に存在する理由は何なのだ。」

そこで、ウクライナという概念の起源を辿りましょう。

4.ウクライナがウクライナである理由

4-1.ウクライナは地域名称だった

時は遡ること9世紀末。現在のウクライナ、ベラルーシ、ロシアといった地域を跨いで「キエフ・ルーシ公国」という巨大な国家が勃興しました。スラブ人単独の構成による国家であったとされますが、13世紀にモンゴル帝国によって滅ぼされた後、近代に及ぶまで様々な勢力がこの地で覇権を争うことになります。時代の変遷と共に、様々な国によって統合分割を繰り返すこの地には、現在のウクライナ人に通じる言語や文化を持つ人々こそ存在したものの、ウクライナという政治上の地図は長く存在しませんでした。

しかし先述の「キエフ・ルーシ公国」をはじめ、コサックが統治する「ヘトマン国家(17~18世紀頃)」といった独自文化の時代を経る過程で、流動的な側面を持ちながらも、一帯に対する地域名称「辺境の地=ウクライナ」が緩やかに浸透していったようです。

ちなみにコサックとは、15世紀頃からこの地に興った軍事共同体とその民を指します。モンゴル支配の瓦解に伴い、中南部の草原区域は奴隷狩りが蔓延るなど無法地帯と化した半面、肥沃な土壌の新天地として周辺の貧しい人々を惹きつけました。ここに逃亡農奴をはじめとする新たな入植者が武装集団を確立、一大勢力を築き上げたのです。

この時代の英雄に、コサックを率いて領主ポーランドに蜂起したボフダン・フメリニツキー(1595-1657)や、スウェーデンと結んでモスクワ国に反乱を起こしたイヴァン・マゼッパ(1639-1709)が居ますが、後に沸き起こる「ウクライナ・ナショナリズム」を象徴するアイコンとして、現在のウクライナ紙幣に描かれる存在でもあります。

ボフダン・フメリニツキー

5フリヴニャ紙幣に描かれるコサックの英雄ボフダン・フメリニツキー(1595-1657)
By NBUРусский: Национальный банк Украины (Скан) [Public domain], via Wikimedia Commons

4-2. ウクライナ・ナショナリズムの誕生

この地を中心とするコサックの自治も長くは続かず、後の第一次世界大戦に至るまで、多くをロシア帝国が、西側の一部をハプスブルグ帝国(オーストリア)が統治する19世紀を迎えます。

同化政策によってすっかりロシアの一地方となってしまったウクライナ地域。ちなみにロシアにおける行政上の地域名称は「小ロシア」でした。領内は都市部のほとんどをロシア人とユダヤ人が占め、ウクライナルーツの人々は農村部に居留するといったように、今風に言うと”クラスタ化”が進み、都市部の少数派も徐々に「ロシア語(=標準語)」を話すようになったようです。なんとなく想像がつきますね。

そしてこの時代、遂に「ウクライナ人」という民族意識が覚醒します。ウクライナルーツのインテリ層が貴族としての正当性を証明すべく、自らの由緒をあれこれと詮索する中、コサックに象徴されるウクライナ・ナショナリズムが芽生え、フランス革命に端を発した国民主権や民族自決の運動へと繋がって行きます。

またロシア側の専制的な支配体制とは異なり、オーストリア支配下の西部はウクライナ文化への圧迫が抑えられる傾向にあり、よりナショナリズムの育まれやすい土壌にあったようです。こちらは全ウクライナの統一と独立を標榜する政党が現れるなど動きは更に活発化、後にオーストリアの支配以前より長きに渡って搾取され続けた、ポーランド人との対立に発展します。

4-3. 現代にも引き継がれる言語の分布と民族問題

ここで突然ですが、2001年時点のウクライナにおける、とある言語の分布図を見てみましょう。

ロシア語区域

ウクライナにおけるロシア語圏のエリア分布図
By Tovel (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

茶色が濃くなるほどロシア語を母語とする人が占めるエリアとなり、その数は国内の二割とされています。如何でしょう。ロシア帝政の下、同化政策や都市部へのロシア人の入植などの要素もあり、民族としての意識が”まだら状”に芽生えた東側。対して、専制色が抑えられた結果、より運動をリードしていた西側。歴史的経緯が、今日に至るまで脈々と受け継がれているようにも感じられます。

結論、ウクライナには「ウクライナ国籍だが、自身がウクライナ人とは思わない」「ウクライナ語が母語なんて困る」という思いの人が、相当数居るのです。これは逆もしかりです。

2/3に続く

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