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コラム

2017.11.08

1本のクソゲーが黎明期のゲーム市場を崩壊?アタリショックという名の都市伝説とは 後編

ゲームカルチャーの世界には、ひとつの都市伝説がある。それは1983年のアタリショックにまつわるものだ。ドキュメンタリー映画「ATARI GAME OVER」を基に、70~80年代のゲーム市場を席巻した米ATARI社の挫折への道のり、そして同社の命運を分けたとされるクソゲーの謎に迫る。(後編)

前編より続き

必要な数の2倍を予約注文する販売店

アタリ2600とスペースインベーダーは、飛ぶように売れるヒット商品となった。玩具店や百貨店では、入荷をする端から売れていき、いつも「入荷待ち」の状態が続くようになっていた。それでも、アタリの工場では、金曜の午後になると仕事をやめてビールパーティーを楽しんでいた。

ワーナーのスーツ族はこれも問題にした。販売機会を失っている。工場の連中が、残業をして働けば、アタリ2600はもっと売れるはずだと考えた。そこで、スーツ族は予約注文制を徹底することにした。先に販売店から数ヶ月先までの予約注文を取り、予約数を集計して、工場に生産ノルマを課すようにした。特に、最もゲームが売れるクリスマスシーズンに関しては、夏のうちに予約を取り、その集計をもとに大量のアタリ2600とゲームカセットを生産する体制を整えた。

しかし、これがアタリショックの直接の引き金となる。販売店でも機会損失の問題に頭を悩ませていた。生産が追いつかないアタリの商品は、注文をしても、注文数の半分ほどの商品しか入荷しない。そこにこの長期の予約注文制が始まった。多くの販売店が、販売機会を失わないために、必要な販売数の倍の数を予約注文表に書き込んだのだ。

1200万本も製造してしまった「パックマン」

こうして、1981年に「パックマン」の開発が始まった。パックマンは、日本のナムコが開発したアーケードゲームで、日本で大ヒットしていた名作ゲームだ。スペースインベーダーと同じように米国でも大ヒットすることが約束されていた。アタリが予約注文をとってみると、その数は1200万本に達した。発売日のクリスマスシーズンにはまだ半年も先なのに、大ヒットゲームになることが確定してしまったのだ。

ところが、このパックマンはクソゲーになってしまった。パックマンそのものは名作ゲームだが、5つのキャラクターを縦横無尽に動かすというそれまでにないゲームであったため、アタリ2600のグラフィック能力では無理があった。キャラクターがチラチラと点滅をすることになってしまい、いったいどういうゲームなのか理解をするのすら難しいひどい出来になってしまったのだ。それでも、ワーナーのスーツ族は、計画通り1200万本を製造した。その時点では、アタリ2600本体がまだ600万台しか売れていないのにだ。

遅れに遅れて、翌年の1982年3月に発売になったパックマンは、シアーズなどの百貨店では、3日で初回入荷分が売り切れるという大人気になった。「ゲームセンターで大人気だったパックマンが、家のテレビで遊べる」と大きな話題になったからだ。しかし、販売本数が700万本を超えたところで、売れ行きがピタリと止まった。作りが雑で、クソゲーだという口コミが回り始めたからだ。700万本でも、ゲームソフトの売れ行きとしては大ヒットだったが、アタリはすでに1200万本も製造してしまっている。400万本以上が不良在庫となってしまった。

次の話題作「ET」は、開発期間5週間のやっつけ仕事

アタリショックが起きた1982年のクリスマスの話題作は「ET」だった。誰もが知っているスティーブン・スピルバーグの大ヒット映画をゲーム化したものだ。これもアタリのスーツ族はヒットするのが確実だとして、販売店からの予約注文数を参考に600万本の製造を決定した。しかし、これが史上最悪のクソゲーだった。

クソゲーになってしまったのは、開発期間が5週間という突貫作業だったのが原因だ。アタリはすでに意思決定をするのに、何段階もの承認を経なければならないようになっていて、何かを決めるのに数ヶ月単位の時間がかかるようになっていた。以前であれば、社内を歩いているブッシュネル社長の腕を捕まえて、立ち話でその場で物事が決定していたが、そのフットワークの軽さはもはやなくなっていた。貨物を満載したトラックのように、急には発進できないし、急には止まれない会社になっていた。開発が難航して、発売日を先延ばししたくても、その検討会議をしている間に発売日がやってきてしまう有様だった。

倍の数の注文を入れたら、本当に倍の数が入荷した!

1982年のクリスマス、販売店はパニックになっていた。アタリの製品はどうせ注文数の半分ほどしか入荷しないと考え、必要な数の倍の注文を入れておいたら、ありえないことに注文通りの数の商品が入荷してきたのだ。それで売れれば文句はないが、鳴り物入りで発売になった「ET」は、誰の目から見てもクソゲーだった。100万本が売れたが、残りの500万本が不良在庫となった。

販売店は頭を抱えた。アタリ本体も、大作「ET」もまったく売れない。春先に発売されていた大作「パックマン」もすっかり売れなくなっている。それなのに在庫は山ほどあるのだ。販売店は、まだ入荷していない商品の注文をまずはキャンセルした。それから、アタリ2600本体、ゲームカセットの価格の値引きを始めた。それまでゲームカセットの価格は30ドル前後が一般的だったが、このクリスマスには5ドル程度まで値引きする販売店もあったという。子供たちは大喜びだった。以前は高くて気軽には買えなかったのが、お小遣いの範囲で買えるようになったのだ。

皮肉なことに、アタリショックのクリスマスのゲームカセットの売上本数は過去最高となった。しかし、販売店は、大幅な値引きのためほとんど利益がでず、経営状態は急速に悪化していった。翌1983年になると、倒産する販売店が続出し、その他の販売店でもゲーム売り場の面積を大幅に縮小した。これがアタリショックだ。

価格暴落を防ぐために、夜中に砂漠に埋める

アタリ社も利益が出づらい体質になってしまった。ゲームカセットの卸値を下げないと販売店が売ってくれなくなってしまったからだ。さらにおおきな問題が、「パックマン」「ET」などの大量の不良在庫だった。どこかに売却をして、わずかでもお金に替えたがったが、そうなると大量のゲームカセットが市場に流れることになり、ただでさえゲームカセットの価格が暴落しているのに、さらに価格を下げてしまうことになる。そこで、完全廃棄処分することになった。

ニューメキシコ州エルパソの倉庫にあった不良在庫ゲームカセットを、隣接するアラモゴード市の廃棄処分場に廃棄をした。掘り出されて、売られることを恐れて、夜中にひっそりと作業を行い、コンクリートで蓋をした。廃棄場所を指定した書類も廃棄するという念の入れようだった。

アタリショック後の荒れ野を快走する任天堂

こうしてアタリ2600が築いたゲーム市場は崩壊したが、ゲームが飽きられてしまったわけではなかった。子どもたちは、大幅値下げされたゲームカセットを買い漁ってゲームを楽しんでいた。ただ、ゲーム産業が以前のように儲からない体質になってしまったために、新規参入する企業が少なくなり、開発計画も次々と中止になったため、新しいゲームが登場しなくなっていた。ゲーム産業は瀕死の状態だったが、ユーザーである子どもたちは砂漠をさ迷う冒険家のようにゲームを渇望していた。

1985年、この乾ききった北米市場に、大量のゲームを満載してやってきたのが任天堂だった。日本で大ブームとなっていたファミコンを、NES(Nintendo Entertainment System)と名前を変えて、発売したところ、渇いていた子どもたちが次々と手を伸ばしていった。任天堂は、アタリショックをうまく利用して、北米市場を支配することに成功したのだ。

「ATARI GAME OVER」では、アラモゴードの廃棄物処分場のどこにゲームカセットが廃棄されかを突き止めた。そして、大掛かりな発掘作業が始まる。たかが、35年前のゲームの話だが、ラストシーンでは、なぜか涙が浮かんでくる。レトロゲームに興味がある人なら、必ず楽しめるドキュメンタリー映画だ。

ジョイスティック

遂に廃棄物処分場よりジョイスティックの破片を発掘。果たして、売れ残ったゲームカセット数百万本の行方やいかに。

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